ボードレール 『悪の華』 堀口大學 訳 新潮文庫 1953
自分の内なる悪の部分と向き合うと、こころが成長する。
カウンセリングを含め、多くの取り組みで言われることです。
では、自分の「悪の部分」とどう向き合うか。
このテーマについて考えるときに思い浮かべたのが、今回紹介する本、ボードレール『悪の華』です。
ボードレール(1821–1867)は、19世紀のフランスを代表する詩人です。美術評論家としても活躍しました。代表作『悪の華』は、1857年の刊行後、公衆道徳に反するとして起訴され、一部の詩の削除を命じられました。生前から一部の作家には高く評価されたものの、広く評価が定まったのは没後のことです。この詩集は、のちの近代詩に大きな影響を与えたとされています。
それでは、どのような詩なのか紹介していきましょう。
自らの悪と向き合う
詩集はこのような冒頭から始まります。
「読者に」と題された詩です。
「われらが心を占めるのは、われらが肉を苛むは、
暗愚と、過誤と、罪と吝嗇、
乞食が虱を飼うように
だからわれらは飼いならす、忘れがたない侮恨を。
われらが罪は頑だ、われらが悔は見せかけだ。
思惑あっての告白だ、
だから早速いい気になって、泥濘道へ引き返す、
空涙、心の汚れはさっぱり洗い流した気になって」
(新潮文庫版 p.23)
なかなか激しい言葉で始まります。
この後も詩は続くのですが、とくにこの冒頭の詩があとの内容を端的に表しているので、まずはここから理解を進めたいと思います。
では、この内容をどのように考えればよいのでしょうか。
この詩については、これまで数多くの解説がされてきましたが、今回は深層心理学カウンセラーの立場から、「私」ならどう読むかを説明していきたいと思います。
自らの悪とは
自分の内にあるマイナスの部分を見つめるのは、なかなか簡単ではありません。
見つめようとしても、無かったことにしてみたり、あたかもすでに解決したかのように思い、それ以上かかわらないようにしてしまう。引用の「空心の汚れはさっぱり洗い流した気になって」という一節は、まさにこの姿を現しているようです。
しかし、そうするほどに、問題は解決しないまま内面に残り、さらに苦しむことになります。結果として、マイナスの部分を解決する代わりに、そこから生まれる苦しみを飼いならすしかなくなる。
そういった人間の業を描き出しているのが、この詩といえるかもしれません。
ボードレールの詩の興味深いところは、そういった人間の悪を描写していくことで、かえって美が立ち上がってくることです。
たとえば「腐肉」という詩では、道端に横たわる獣の腐乱した死骸が描かれます。語り手は、その死骸を前に恋人に語りかけ、あなたもいつかこうなるのだと告げるのです。この詩は、次のように結ばれていきます。
「美し形象は消えて、残れるはただに夢のみ、
忘られて画布にうかぶは、
思い出をたよりに、画家のたどりゆく、素描のみ
運筆のたどたどしさよ」
(p.83)
あまりにも残酷な内容なのですが、そこに作者の意図が隠されているかのようです。
というのも、この詩の前には、美しい人を賛歌する詩が続きます。
にもかかわらず、その先にあるのがこの「腐肉」という詩。
見た目の美しさは、あくまで儚いものです。しかし、その儚さや、腐肉となっていく醜さのなかに、真実がある。私はそのように読みました。
日本にも、死体が朽ちていく過程を九段階で描いた仏教絵画「九相図」があります。それは人生の無常さを示すものといえます。しかしボードレールの詩は、そこに「美」を見ているのが特徴的です。
もちろん、これは醜いものや死、悪を礼賛するといった単純な話ではありません。美とされるものは、「誰もが目をそむけたくなるようなマイナスのものから立ち現れる」。そしてそうして生まれた美は、時を超えて残っていく。訳注によると、ヒポクラテスの箴言として知られる言葉を、ボードレールも詩のなかで用いています。
「「芸術」は長く、「時」は短い」
(p.50 「不運」)
カウンセリングの視点から
こうした観点を、どう考えればよいのでしょうか。
カウンセリングでは、相談に来られた方の、いわゆる「光の当たる美しい部分」を扱うことは少ないです。それよりも「影となっている苦しい部分」を扱います。それは相談に来られているクライエントにとっても、見たくないマイナスの部分です。
ここで、少し言葉を整理しておきます。深層心理学では、自分で認めたくない部分を「影」と呼びます。ボードレールの言う悪について、私はこの「影」を連想します。
カウンセリングを続けていくうちに、クライエントは「自分の影の部分」を見つめるようになっていきます。そして「影の部分にこそ、私らしい生き方が詰まっている」ことに気づくようになるのです。
ボードレールの詩もそうではないでしょうか。
多くの人が見たくないような、醜い、汚い、そして罪悪の部分。そこにこそ、人間らしさや、大切な何かが含まれている。だからこそ、それに接し、深く見つめていくことが必要なのだと。そうすることで、見えてくる真実があるのだと。
こう考えたとき、ボードレールが見つめていたのは、醜さそのものではなく、その向こう側に見える人間性や真実ではないだろうかと思います。
自分の悪の部分とどう向き合うか。
それは、評価もせず、目をそらさずに、あえて見つめるということではないでしょうか。
こころのなかにある影の部分を隠すのではなく、あえて見つめていく。それによって、自分の真実の姿が見えてくるかもしれない。ボードレールの『悪の華』を読みながら、そのようなことを考えさせられました。


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