【書評】人間性とは何だろう。 スタインベック『ハツカネズミと人間』 

書評

スタインベック 『ハツカネズミと人間』 1937 大浦暁生 訳 新潮文庫1994

夢を持っていると、日々つらい暮らしを送っていても、生き抜くことが出来る。
それが人間の智恵である。そのように私は考えています。
しかし、それは本当に正しいことなのだろうか。疑問を突きつけられたのが今回紹介する『ハツカネズミと人間』です。

スタインベックはアメリカを代表する作家であり、ピューリッツァー賞を受賞した実力ある書き手です。代表作の長編『怒りの葡萄』は有名ですが、今回は彼の書いた中編『ハツカネズミと人間』を紹介したいと思います。この作品は、アメリカの高校生が国語の授業で読まされる定番の小説だそうです(ただし近年は表現をめぐって議論もある作品です)。内容は、決してハッピーエンドではなく、辛い終わり方をする話なのですが、働きながら日々を生きるとは何かについて、深く考えさせられる、強いメッセ―ジが込められた物語りです。

突如終わりを告げる物語り

この物語りの主人公はレニーとジョージという二人の男性です。レニーは体が大きく、そして力もとてつもなく強い、しかし知的にやや弱いところがある(描写を読むと、現代でいう知的障害があるよう)人物です。そのレニーと一緒にいるのが、体の小さなジョージ。彼は弁が立ち、どのようにすれば世の中を上手くわたっていけるかを、レニーに教える、良き相棒です。

二人は農場を転々と移りながら働いて生きています。いわゆる季節労働者というような働き方をしている人たちであり、一定期間、農場で泊まり込みで働いたあと、別の農場に移って働きます。収入は多くなく、どちらかというと貧しい暮らしを送っています。
話の冒頭では、どうやらレニーが何らかのトラブルを起こして、世話役のジョージと一緒にそこを離れ、別の農場に移る途中です。
ジョージはレニーに言います。新しい農場にたどり着いたとしても、そこでは何も話すな、話せないようなふりをしろといいます。レニーが話すことで、トラブルになることを恐れたためです。

二人は新しい農場で働くことになりました。そして始めは上手くいっていたのですが、そこの農場主の息子がジョージたちを挑発し、いじめようとやってきました。レニーはその息子に何度も殴られます。レニーは自分が抵抗すると相手を傷つけてしまうため、我慢していたのですが、ジョージが反撃をするように言います。レニーはためらいつつも、結局は反撃をし、相手を酷く傷つけてしまいます。そのことをレニーは悔やみます。

二人は夢を持っていました。お金をためて、自分たちの農場を持って暮らすこと。そしてレニーはその農場で「自分のウサギ」を育てることを夢見ます。ジョージはレニーに「自分たちの農場で暮らせたら、ウサギの世話をさせてあげる」と約束します。レニーはそれを夢見て何度も「ウサギを世話するんだ」と言っています。

しかし、ある日、レニーのもとに農場主の息子の妻がやってきます。レニーは彼女と話しているときに、悪意は全くなかったのですが誤って彼女の命を奪ってしまいます。そしてレニーはその場から逃げ出します。
怒った農場主の息子と農場で働く人たち、そこにジョージも含まれていましたが、レニーを捕まえ、集団で罰を与えようと探しに出かけます。

レニーはジョージと、その農場で働く前に「もしトラブルが起きたら、ここで会おう」という約束の場所を決めていました。逃げ出したレニーは約束した場所にいました。ジョージはそこでレニーを見つけます。レニーはそこで言います。自分たちの農場を作って、そこでウサギを育てるのだと。ジョージはレニーを追いかけて、武器を持った人たちがやってきているのを知っています。このまま見つかると、レニーはひどい目にあわされ、さらに命を奪われることが明らかでした。そんな目に合わせるぐらいならと、ジョージはレニーを手にかけ、彼の人生を終わらせました。

このような物語りです。

さて、この物語りを通して、私たちは何を考えればよいのでしょうか。

夢はかなわないのでしょうか

農場に暮らしている黒人の男性は言います。夢を持って、いる人たちは沢山いた。自分の農場を持つのだ、という人もたくさんいた。しかし、週末になるとお金を持って、遊びに出かけて、そこでお金を使い果たしてしまう。結局、みんなそんな人ばかりである。夢をかなえる人なんていない、といいます。実際に、ジョージが遊びに出かけているときに、レニーが事件を起こしたのでした。

たしかに、夢を抱いていても、実際に叶える人はかなり少ない、という現実があるのを私も納得します。夢を叶えたいといいつつも、叶わないのです。
しかし一方で、夢をかなえる人たちがいるのも知っています。その人たちは、夢はかなうものだと、「どこかわかっていて」そのために動き出した人たちです。この違いは大きいと思います。
ただし、この違いを説明したところで、レニーにもたらされた運命をどのように理解するのか、ということへの答えにはなりません。

なぜレニーは人を殺めてしまい、そして、自分も命を奪われることになったのか。その人生について考えさせられます。

レニーは力のコントロールが上手くできません。それは、知的な能力も影響しているかもしれませんが、この物語の舞台となった時代には、今ほど障害への理解や支援が行われていたわけではありません。物事の理解力が低く、人に危害を加える危ない人間、と思われていたでしょう。

レニー自身は動物が大好きで、ハツカネズミをずっとポケットに入れて過ごしていました。そのハツカネズミも死なせてしまうのですが、それでも大事にポケットに入れている、という人物です。
弱いものを大事にしたいという想いはある。だけれども、その弱いものを傷つけてしまう可能性が高い、という本人にとっても、かなしい苦しみを抱えています。

ジョージはそのレニーの保護者でもあり、相棒でもある。どこかジョージはレニーを大事に思っているようです。ジョージも、社会での生きづらさや、将来の不安も抱えていたのかもしれません。この二人の関係は、血縁関係でも、友だち関係でもない、不思議な関係ですが、ジョージもレニーがいることで、心休まるところがあったのかと思います。

ジョージはレニーの将来を案じた。そして、レニーを抱えながら、ともに生きる自分の将来も不安を感じた。そのため、ジョージはレニーを手にかけたのでしょう。

では、もう一度、問い直しますが、この物語りをどう読めばよいのでしょうか。

自分の物語り

私は物語りをこう読んでください、と指示するつもりはありません。
あくまで、「私にとってどう読むか」を伝えるだけです。では、私ならどう読むかというと「これは自分のなかにある、ある可能性の一つ」として読むということです。いいかえると、他人事ではなく「自分の事」として読むのです。

何かというと、自分にもレニーやジョージのような部分があるだろう。物事にうまく対処できなかったり、残酷であったり、悲しみを抱えて居たり。そういった部分もあるだろう。また、彼らが陥ったような社会状況は、遠い昔の事ではなく、今自分のまわりにも形を変えて起こっていることである。夢を持っていても実現できない、苦しい生活からなかなか抜け出せない、自分の個人的な想いや努力だけではどうにもならない社会状況がある。こういったことが普通に存在しているにもかかわらず、それを見ないことで、「私は大丈夫だろう」かのように過ごしている自分もいる。
登場人物も、社会状況も、形を変えただけで、本当は自分にとって身近に起きるていることであると。

もちろん、私が誰かを手にかけるということではありません。しかし、私がジョージの立場であったら、レニーに同じような対応をする可能性もあるのではないだろうか。または自分がレニーの立場だったら、どうだっただろうか。または、自分が農場の息子の立場だったら…。簡単に答えが出せないことが分かってきます。

そういった大変な苦しみと哀しみを通してこそ、人間とは何かということを考えることができます。

この作品で書かれている内容にしっかりと向き合えたとき、ハツカネズミのように、小さくて脆い存在でもある、人間性についての洞察を得られるのではないでしょうか。

 

プロフィール
この記事を書いた人
三輪 幸二朗

Mitoce 新大阪カウンセリング代表
臨床心理士

Mitoce 新大阪カウンセリング
電話番号:06-6829-6856
メールアドレス:office@mitoce.net

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