心理カウンセラーがよくある質問について回答します。
この質問は答えるのがとても難しいのですが、カウンセリングについて本質的な問いだと思いますので答えます。
この質問は、ハーバード大学の文化精神医学を研究されているアーサー・クラインマン先生を訪ねたときに、臨床心理士で京都大学名誉教授の皆藤章先生が問いかけた質問と似ています。
私はそのやり取りを本を通じて知っているのですが、その内容を紹介するのではなく、現在の私が考える回答として答えたいと思います。
想定として、実際にベッドサイドに私がいて、ターミナルケアを受けている人が今目の前に横たわっている。そこで「カウンセリングに意味があるのですか」と聞かれたときに、どう答えるかについて書きました。
この質問を受けたとき実際の場面であれば、私はこう言うかもしれません。
「あなたについてお話を聴かせていただいても、よろしいでしょうか」
医療現場でも働いていた私の経験に基づいて考えます。
入院するとその人は「患者」としてスタッフからみられるようになります。いいかえると「病気の人」。それまで普段の生活を送っていた「Aさん」が「患者のAさん」になるのです。
そして「患者」になったとき、その人がどのような人かを見分けるために注目されるのが「病気の部分」です。悪性腫瘍や身体の痛みなど、さまざまな症状を生み出している「病気」です。「○○の病気になっている患者のAさん」です。それは病院のスタッフだけでなく、病気を抱えている本人も「病気」に注目するようになります。
このことが、どのような事態につながるかを考えます。病院のスタッフや患者本人、そして家族や周りの人にとって、病気が関心の中心になります。
病気の症状を軽くすること、病気の原因を見つけること、治療の成果を出すことなど、原因や結果がはっきりとしていることが重視されるようになります。
ターミナルケアという状況を考えてみます。そこでは、もはや病気は治療目標ではなく、症状をコントロールして緩やかに死を迎えるのが目標になります。では「緩やかな死」はどのようにして迎えるのでしょうか。痛みや苦しみが軽減したとしても、最後には「こころの課題とどう付き合うか」という課題が残ります。その課題には原因と結果だけではとらえられない、個人的なストーリーが含まれているのです。
死を迎えるときの個人的なストーリー
たとえば数週間のうちに死を迎えようとしているある高齢の女性が「家族が心配だ」と話したケースを考えます。
スタッフが何が心配なのかと尋ねると「自分の息子は臆病で、さみしがりなんです。私が亡くなったあと、あの子はひとりでどうするのか心配」といいます。
しかしながら面会に来たその人の子どもをみると、スーツを着て、身なりも整っており、スタッフへの受け答えも丁寧。しっかりとした印象の人で、会社の役員をしていると自己紹介もされました。にもかかわらず母親からみると「臆病でさみしがりや」なのです。
なぜ母親として子どもが心配なのかをさらに聴きます。
「幼い頃に息子が高熱でうなされたとき、「お母さん」と繰り返し呼びながら、自分の手を握って放そうとしなかった」と話されます。その印象が強く残っているのでしょう。もう60歳を過ぎた息子であっても、その人にとっては「臆病でさみしがりや」なので心配なのです。
そこには母親の息子に対する個人的な思い、いわば母子のあいだで紡がれた個人のストーリーがあるのです。
ただし心理的にみれば、別の側面もみえてきます。それは幼い頃の息子に自分の思いを仮託して、自分の気持ちを伝えている可能性もあります(心理用語では投影といいます)。
「自分は一人で入院していて心細い。死ぬことが怖いし、ひとりでいるのはさみしい。だから自分にとって大事な息子に来てもらって、手をつないでほしい」という思いがあるのかもしれません。
カウンセラーに息子への思いを話した数日後です。母親の思いを察知したのか、息子さんが面会に来られたときです。息子さんがしばらくのあいだ、ベッドの横に座って母親の手を握っていました。そしてその方は緩やかな死を迎える時間をすごしたのです。
(これはあくまで実際の出来事に基づいた架空のケースです)
死を迎える人に寄り添うこころ
ターミナルケアのように死を迎えようとしている人は、病気は治らない状態にあります。そのようなとき、効果の出る何かをするという目標を立てても、役に立たないことがあります。
痛みをコントロールするという効果が出る治療をしても「では痛みがおさまれば、その人はあとは死をただ待つしかないのか?」という問いが出ます。
そのようなとき今、死を迎えようとしているその人が、どのような人生を送ってきたのか、どのように最後を過ごすのかということが重要になります。「病気の人」というときに「病気」ではなく、「人」に焦点を当てなければならないのです。
その人が一人の人間として亡くなっていく。そのときカウンセラーは「今死を迎えつつあるあなたが、これまでどのような人生を送り、どのような想いを積み重ねてきたのか。死を迎えようとするあなたのこころを聴かせてください」という思いになります。
死を迎えるまでの過程を一人で進むのは孤独であり、不安でしょう。せめてその過程に同行させて頂けたらと、カウンセラーはクライエントの死へと至るプロセスに寄り添います。それはその人が言葉を発することができなくなっても、こころに寄り添うことは続くのです。死を迎えるまで、もしくは死を迎えても、こころは残ると考えるためです。
このような考えがあるため、私は始めに書いたような答え方をすると思います。
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