【書評】人間らしく生きる?操り人形として生きる? コッローディ『ピノッキオの冒険』(1880年)

書評

参考文献:『ピノッキオの冒険』コッローディ作、杉浦明平訳(岩波少年文庫、1958年)

 

ディズニーの可愛らしい木の人形で有名なピノキオ。しかし原作である『ピノッキオの冒険』を読むと、その印象は大きく変わるかもしれません。原作のピノッキオは非常にわがままで考えが浅く、いわゆる「手に負えない」タイプだからです。

物語りの前半では、彼はゼペット爺さんに反抗して家を飛び出し、勉強のための教科書を売り払い、忠告をくれるコオロギを(悪気なく、とはいえ)つぶしてしまいます。さらにキツネとネコに騙されて大金を失い、甘い言葉に乗って授業をサボり、誘拐されてしまうなど、その奔放さはなかなかのものです。

「嘘をつくと鼻が伸びる」という有名な設定も、原作ではそれほど大きな比重を占めていません。エピソードの一つとしては語られますが、嘘をつくかどうか以上に、ピノッキオの行動そのものが破天荒すぎるため、読者には「鼻の長さ」よりも「彼の素行」のほうが強く印象に残るほどです。

また、物語りの根底には「しっかり勉強し、勤勉に働くことが人間として大切である」というテーマがあります。これは当時の時代背景を強く反映した教育的な指導という側面もあり、ディズニー版の愛くるしいキャラクター像とは一線を画しています。

しかし、この「かわいくない、手のかかる子ども」であることこそが、実は重要な意味を持っているのです。

 

ピノッキオに隠された物語り

ピノッキオがどのように生まれたか。そこに謎を解くカギがあります。

彼はゼペット爺さんに作られたパペット(操り人形)ですが、原作の設定は少し特殊です。

ピノッキオは、ゼペットが手を加える前から、すでに「言葉を話す一切れの丸太」でした。丸太を拾った大工がその扱いに困り、友人のゼペットに譲り渡したことで、人形として形作られたのです。つまり、ゼペットが命を吹き込んだわけではありません。

この設定は、心理学的に見ると非常に重要な意味を持ちます。ピノッキオはいわば「生みの親」を知らない存在であり、ゼペットは「義理の父親」、そして鼻を伸ばす魔法をかけた仙女が「母親役」という構造になっています。

「操り人形」であることは、言い換えれば「誰かに操られてしまう存在」であることを示唆します。初期のピノッキオは、他人の言葉を鵜呑みにしたり、誘惑に流されたりといった、自分の意志を持たない空っぽな行動を繰り返します。その結果として、数々の失敗を招いてしまうのです。

しかし、ここに彼が切望する「人間になること」へのヒントが隠されています。

人間になるとは、誰かの操り人形ではなく、「自分の意志を持って行動すること」。そしてその意志とは、「大切な誰かのために抱く想い」から生まれるものです。

物語りの終盤では、ゼペット爺さんは巨大なサメに飲み込まれてしまいます。暗い腹のなかで食料もろうそくの灯りも尽き、生きることを諦めかけていたゼペットの前に、ピノッキオが現れます。彼は絶望する老人を励まし、背負ってサメの体から脱出すると、荒波の中を懸命に泳いで彼を救い出しました。

このとき、ピノッキオは誰に命じられたわけでもなく、自らの意志で行動しました。その結果、ピノッキオは本当の人間へと変わり、名実ともにゼペットの「息子」になれたのです。血縁を超え、親を深く思いやるという「絆」が、彼を人形から人間へと変えたのです。

 

自分らしく、そして人間らしく生きる

この物語りを振り返りながら、自問します。「自分は誰かの操り人形になっていないだろうか」と。

何でも言いなりになって失敗する……という極端な例ではなくとも、他人の顔色を窺いすぎたり、世間体を気にして動いたりするとき、私たちはどこかで「人間らしさ」を失っているのかもしれません。あるいは自分の意志だと言い張りながら、単に周囲を振り回して迷惑をかけているだけの、未熟なピノッキオのような状態に陥ることもあるでしょう。

本当に大切なのは、その意志が「自分にとって何が大事か」に基づいているか、そして「その大切な人のために行動できているか」ということです。それができたとき、私たちはようやく、本当に人間らしい姿になれるのではないか、そのように考えさせられる物語りです。

 

プロフィール
この記事を書いた人
三輪 幸二朗

Mitoce 新大阪カウンセリング代表
臨床心理士

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