【書評】素直に甘えられないときの孤独『ごん狐』

書評

新美南吉『ごん狐』千葉俊二/編『新美南吉童話集』岩波文庫 1996年

 

教科書にも掲載されている新美南吉の代表的な童話。幼い頃、授業で読んだ記憶が残っている方もおられるかもしれません。今回取り上げるのは、そのなかでも有名な「ごん狐」です。大人になって読み返すと、当時よりもにはっきりと気づく、作品に描かれた「かなしみ」や「不条理」について振り返ります。

主人公のごんは、山の中で独り暮らしをしている小狐です。ふもとの村へ出ては、芋を掘り散らしたり火をつけたりと、いたずらばかりしていました。 ある日、村人の兵十が川で魚を捕り、びくに入れているのを見つけたごんは、またいたずらごころを出します。
兵十に気づかれないよう、びくから魚を掴み出しては次々と川へ投げ込みました。しかし、最後にウナギを投げようとしたとき、ウナギが首に巻き付いてしまいます。もがいているところを兵十に見つかり、ごんは命からがら逃げ出しました。

後日、ごんは兵十の母親が亡くなったことを知ります。「あのとき盗んだ魚は、病気の母親に食べさせるためのものだったのではないか」――そう後悔したごんは、罪滅ぼしのために魚売りから魚を盗んで兵十の家に置きます。ところが、そのせいで兵十が泥棒の疑いをかけられ、殴られたことをあとで知るのです。 裏目に出た償いを反省し、ごんは、それから毎日、山で採った栗や松茸を兵十の家にこっそり届けるようになります。

ある日、ごんは兵十が村人と話しているのを耳にします。誰かが毎日、栗や松茸を届けてくれるという相談に対し、相手は「神様が独り身になったお前を哀れんで恵んでくださるのだろう。神様に礼を言うといい」と答えていました。それを聞いたごんは、せっかく自分が届けているのにと「引き合わない(割に合わない)」と感じます。

その翌日も、ごんは栗を持って兵十の家を訪れます。しかし、家に入ったところを兵十に見つかり、火縄銃で撃たれてます。倒れたごんの傍らに栗が落ちているのを見つけた兵十は、「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」と問いかけます。ごんは目を閉じたまま頷きました。

 

「ごん」が抱える孤独のかなしみ

新美南吉は29歳の若さで亡くなった作家であり、「ごん狐」は彼が19歳の時に書かれた作品です。物語全体を覆うかなしみの正体は、どこにあるのでしょうか。

ごんは自らの罪を自覚し、改心して償いの行動を重ねました。にもかかわらず、最期は撃たれてしまう。この物語には、いわゆる「救い」がありません。

その理由を理解するために、兵十の立場に立ってみます。兵十にとってのごんは、弱った母のために用意した大事な食料を奪い去った「憎きいたずら狐」です。母が亡くなったあと、誰からともなく栗が届く不思議な出来事が起きていましたが、それがごん狐と結びつくはずはありません。そんな折に、家のなかにごん狐が侵入してきたのです。そこで兵十はとっさに銃を取りました。

ごんがなぜ栗を届けていたのか、兵十はその真意を最後まで知ることはできませんでした。なぜなら、ごんは「すまないことをしたから、償いに来ました」と伝えていなかったからです。

ごんが弁明をしなかったのか、あるいは何らかの理由でできなかったのか。それは物語の行間から予想するしかありません。

ここで一つの可能性を考えます。「ごんはどうすれば助かったのか」という点です。

正直に謝罪して言葉を尽くすか、あるいは人間界と距離を置き、完全に山の中で生きるか。同じ南吉の作品『てぶくろを買いに』の母狐のように、人間を警戒して生きる道もあったはずです。しかし、独りぼっちだったごんは、寂しさゆえに人と関わらずにはいられなかったのではないでしょうか。これまでのいたずらも、誰かの注意を引きたいという、孤独なコミュニケーションだったのかもしれないのです。

誰からも相手にされず、孤独を理解されない、だからこそ繋がりを求める。この必死な訴えは他人には届かず、ただの「厄介者」として処理されてしまう。それを考えると、悲劇は最初から予測されていたともいえるでしょう。

 

哀しみがこころに残る

本作には、勧善懲悪も劇的なハッピーエンドもありません。現代的な物語であれば、奇跡的に命を取り留めたごんが村人と和解する……といった結末になるかもしれません。しかし、私たちはそれが「現実的ではない」ことを知っています。

現実はこの物語りのように、お互いに誤解したまま、理解し合えず、取り返しのつかない結末を迎えてしまうことがしばしばあります。そうした不条理な現実があることを知っているからこそ、私たちは「ごん」のような存在がどこかにいるのだと、想像できるようになります。

物語りを通じて「綺麗事だけではない」という事実を突きつけられるからこそ、他人の痛みや、声なき叫びに敏感になれる、と私は考えます。

新美南吉がこの物語りに込めたのは、単なる道徳ではなく、他人を理解することの困難さと、それでも関わろうとする生の営みへの敬意ではないでしょうか。ごんは人間に恨まれることがわかりつつも、身を隠しながら、償いを続けたのです。そこに、ごんの素朴なさみしさがこもっているのです。

 

プロフィール
この記事を書いた人
三輪 幸二朗

Mitoce 新大阪カウンセリング代表
臨床心理士

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