【書評】万能感と孤独の物語 ――『海底二万海里』

書評

J. ヴェルヌ著 / A. ド・ヌヴィル画 / 清水正和 訳 『海底二万海里』福音館書店(1973年、原著1872年)

 

巨大な潜水艦の物語り

巨大な潜水艦で世界中の深海を旅する――。本作は150年以上前に書かれたSF小説の古典です。「潜水艦」が登場する物語で、この作品の影響を受けていないものはほとんど無いといっても過言ではないでしょう。日本のアニメ作品などにも多大なインスピレーションを与え続けています。

物語りの舞台は、謎の巨大生物の噂に沸く19世紀です。博物学者のアロナックス教授は、従者のコンセイユ、漁師のネッド・ランドとともに、巨大潜水艦ノーチラス号に捕獲されてしまいます。そこで出会ったのは、謎めいたネモ艦長。一行は彼と共に、未知なる深海の世界へと足を踏み入れることになります。

沈没船に眠る財宝、巨大な海洋生物、そして海底に沈んだアトランティス大陸。ノーチラス号は、当時の常識を遥かに超える時速90キロという速さで進み、水深1万メートルの深海まで到達します。窓の外に広がる神秘的な光景は、読者を冒険へと引き込みます。

本作は現代の科学からみれば、物理的に無理のある設定も少なくありません。また博物学者が主人公であるため、専門的な生物名が羅列される場面に圧倒されることもあるでしょう。しかし、それらの描写こそが「未知の世界」へのリアリティを支えています。そして何より、この物語を深く魅力的なものにしているのは秘密に満ちたネモ艦長の存在です。

艦長のこころと深海

ネモ艦長は、卓越した知性と莫大な富を兼ね備えた人物です。自ら設計し建造したノーチラス号には、膨大な蔵書を誇る図書館や高価な絵画、宝石が備えられています。彼は陸の世界との関わりを一切断ち、食べ物すらすべて海のもので賄うという徹底したこだわりを持って生きています。

 

彼はなぜこれほどの潜水艦を作り、陸を離れなければならなかったのか。時折見せる、陸の人々に対する激しい怒りの理由はどこにあるのか。物語のなかで、彼の過去の詳細は最後まで語られません。

完璧に見えるネモ艦長ですが、その内面には深い孤独が横たわっています。普段は感情を表に出しませんが、仲間を亡くした際には激しく動揺し、一人パイプオルガンで哀しみに満ちた調べを奏でます。知的対話ができるアロナックス教授という理解者が現れても、彼の孤独が真に癒やされることはありません。

ネモ艦長は、知識・体力・指導力のすべてにおいて優れた万能な人間です。しかし、彼の時折見せる攻撃的な行動(海洋生物の虐殺や戦艦の撃沈)を心理的側面から読み解くと、彼自身がかつて「深く傷ついた体験」を持っていたことが推察されます。

彼はその傷つきに自ら触れることができず、こころの回復がなされないまま、ノーチラス号という完璧な外殻である潜水艦に身を隠しているようにも見えます。 潜水艦で活躍しているときの万能感と、一人になったときに襲いかかる無力感。 この浮上と沈下を繰り返すようなこころの葛藤こそが、ネモ艦長という人物の正体なのかもしれません。

理想を生きるということ

自分の理想的な世界を築き、そこに閉じこもることで得られるものと失われるもの。本作は冒険小説としての楽しみとともに、人間のこころの深淵を考えさせます。

19世紀末にこれほどの物語を紡ぎ出したジュール・ヴェルヌの想像力には驚かされるばかりです。それはまさに、人間の「こころの創造力」が持つ圧倒的な力を、私たちに見せつけてくれているのです。

プロフィール
この記事を書いた人
三輪 幸二朗

Mitoce 新大阪カウンセリング代表
臨床心理士

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